この季節が来ると、思い出す母と家族の事

丁度、三年ほど前の三月に、
母の病状が悪化していき、
日常生活を送るのも難しい
状態になっていた。
乳がん完治後、
すぐに転移が見つかり
そこからの五年間の治療は、
後から聞いたところ、
想像以上に大変だった。
親不孝者の私は、
それに気づかず、
一緒に暮らす父と妹にその全部の
負担を負わせてしまった。

母は、離れて暮らす、私と弟に
心配をかけさせたくないとの思いで、
私と弟には絶対に病状の事は
言わないようにと、
父と妹に伝えていた。
二人が守り、そこに私も甘んじて
それでも、気づくべきだったのに、
母を含めた、三人で治療の成果や
抗がん剤の効果に一喜一憂している
頃に、何も知らずに、いつも、
のほんと、能天気な長女として
実家に遊び感覚で行き、
大量のお土産を手にして
帰っていた。

丁度、三年ほど前に、
母の病状が悪化していき、
日常生活を送るのも難しい
状態になっていた頃、
我が家では、(最初で最後の)
台湾へ海外旅行へ行っていた。
lineで母にその時の様子を
送っていたのだが、
いつもなら、即時に返答が
来るのに、既読がついても、
返事が来ない。
なんだか、おかしい、
何かが、おかしい、
同時期に、弟も何かがおかしいと
気づいていたおり、
お互い、何かがあると思い、
二人で実家に行った時には、
父と妹が、入院の為の書類を
書いている時だった。
もう、この家に母は
戻れないのかもしれない。
そう誰もが感じる、
状況にまでなっていた。

は、すべて自分がやる仕事だと、
思っていたのだが、
妹は違う。
妹は、自分の仕事を、
早退したり休んだりしながら、
母の闘病を支えていて、
自分の時間や妹の家族の中での
母親としての役割も後回しにしていた。
彼女の私と弟に対する、
怒りと心労は当然で、
この事実は、忘れてはいけないと
思っている。
父と妹が背負っていた、
闘病中の母の状況を、
なんとなく気づいていて
そこに、触れないようにしていた、
妹に対しての贖罪の念は、
一生消えない。
過去の時間を変えることは
できないけれど、
今から何ができるか、
とりあえず、
何もできなくても、
何かできることは、する。
そう行動変えて行くしかなかった。

母は、その三ヵ月後に他界したのだが、
それまでの毎週末は、
弟と私が泊まり込みで父と妹のフォロー
をすることになった。
ただ、平日にしか出来ない事がおおい
仕組みになっていて。
(行政関係の申請とか、
 病院の先生との打ち合わせとか、、。)
大したことは、本当に
何もできなかったな、、、。
闘病中の家族がいると、
その介護に家族のだれもが公平に
負担を分け合えるわけではなく、
どうしても、近くにいる家族に
負担を強いる事になってしまう。
難しい問題ですね。

今は、実家に帰る度、
妹とランチ巡りに行くことを
お互い楽しみとしている。
支えるって、
たいそうな事ではなく、
気にかけてあげる事だったの
かもしれない。







スポンサーリンク